
建築家について
建築家(けんちくか)とは、自らの美学的見地・論理的分析にもとづいて建築物を設計し、実現に必要な知識や折衝能力・監督能力を有する人のことである。すなわち、計画・意匠面の考案者・著作者であるとともに、実現の上での技術的側面を統括・指揮する責任者である(参照: 建築)。
建築家とは、自らの美学的見地・論理的分析にもとづいて建築物を設計し、実現に必要な知識や折衝能力・監督能力を有する人のことである。

建築家(けんちくか)とは、自らの美学的見地・論理的分析にもとづいて建築物を設計し、実現に必要な知識や折衝能力・監督能力を有する人のことである。すなわち、計画・意匠面の考案者・著作者であるとともに、実現の上での技術的側面を統括・指揮する責任者である(参照: 建築)。
欧米における建築家は、伝統的に医師・弁護士と共にプロフェッショナル(公益のために働く専門家)として扱われており、構造・設備などの技術者(エンジニア)とは区別される。
「建築家」というとき、西欧流アーキテクトを想起するが、その成立までにはさまぎまな歴史がある。古代ギリシャ・ローマではそれは建築術をはじめ土木技術、造兵技術、機械技術を含んだ「大技術者」、いうなればグラフトマン(工匠)で「大工」という意味であった。中世ヨーロッパに大聖堂を築いた工匠は存在しても、建築技術者は一般に職人と見られていた。建築家の地位が確立したのはルネサンス期以降で、建築家の名前が作品とともに伝えられるようになった。15世紀イタリアのブルネレスキが建築家の始めとされる。当時、フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)に世界最大のドーム屋根をかけることが課題となっていたが、巨大な足場が必要になるため、建設は非常に困難と見られていた。ブルネレスキはこの課題に合理的な解決をもたらし、足場を築かずにドームを造る方法を提案して、ドームを完成させた。また、万能の天才といわれた人文主義者アルベルティは『建築論』を著し、学問的に建築学を位置づけた。これらの人物の活動によって、次第に職人とは異なり、高い教養と科学的知識を持つ建築家の職能が確立していった。イタリアなど南欧諸国においては、ルネサンス期以降、建築家は主に社会的な事業に関わる芸術家として尊敬を集めてきた。こうして、アーキテクトが芸術家的意味を帯びるのは15世紀のイタリア・ルネサンスに始まると同時に建築の形態が学問として科学的に解析検討され、芸術としての本性が追求された。建築家は技術者との職分から、学者であり芸術家・デザイナーとしての側面を持つに至る。
ところがイタリアに比べ当時は後進国であったイギリスでは環境芸術家や都市デザイナー、アーキテクト的な側面は、イギリスで中世以来発展してきたサーベイヤー(測量技師、調査師または調査官などと邦訳される)という職能の一部として機能する。そしてこのイギリス的特性の中で形成されていくのが、近代的アーキテクト像とされる。イギリス最初期にデザイン系の建築家となるイニゴー・ジョーンズや後のクリストファー・レンなど、多くの著名な建築家は、当初王室サーベイヤーとして活躍し、のちに建築家へと発展し、建築作品を残していく。たとえば、1666年当時のロンドン大火後の再建計画を国王や市に寄せた幾人か、クリストファー・レンのほか友人のジョン・エブリン、その他ピーター・ミルやリチャード・ニューコート、バレンタイン・ナイトなど、この時点では専門の建築家でも都市計画家でもなく、本職をもちながらサーベイヤーを委嘱されていた人物らである。
この一群の中から、南ヨーロッパ伝統の、芸術家的側面の建築家とは異なる、技術的な側面の強い近代主義の建築家につながるもう一方の系統が生じ、さらにギルト・職能主義の進展、近代的教育組織や職能団体を結成し、さらに国家試験を課して資格制限を目指す排他性を基調とした動向などに伴い、サーベイヤーからアーキテクトは分離独立していく。1761年には王室建設局が、これまで長らく使用してきたサーベイヤーという職名からアーキテクトという呼称に切り替えていく。こうして発生した英国内のアーキテクトは、根本的には芸術家であるからとの理由で、画家や彫刻家と同列にとどまろうとはせず、すでに多くの機会に彼らは弁護士に伍する専門家として、すなわち意匠設計に携わることだけに劣らず、建設の際施主の経済的また利害の保護に携わる高潔、聡明の士、として活動することになる。
サーベイヤーという器の中で成長してきたイギリスのアーキテクトは、その歴史をみるとおり、芸術家というより、不動産としての建築、をつくる立場から職能的倫理や資格が問われていたのであり、1838年創立の英国建築家協会(後のRIBA)の憲章に、建築家は本来、施主と施工者との中間者である、と説かれているのは、このような立場からである。近代的アーキテクト像がアーティスト的性格と、サーベイヤー的性格を統合する形で成立していったのには、このような歴史的背景がある。
現在の日本においては、必ずしも「建築家」の明確な定義が法律でなされてなく、たとえ国家資格である建築士の資格を取得している人でも1割以外は建築設計の経験がない。そのため、アメリカ合衆国やヨーロッパなどにみられるような建築家としての地位は存在してなく、あくまでも個人の自称に留まっているのが現実である。
日本では伝統的に設計と施工を兼ねる大工棟梁がいた。幕末・明治初期に擬洋風建築を造った大工棟梁として二代目清水喜助(清水組)らが知られる。 Architect の概念は、明治時代以降に輸入されたもので、まずは明治政府が雇用したお雇い外国人トーマス・ウォートルスやジョサイア・コンドルらが活躍した。次いで旧官立大学を中心に西欧の建築学が導入された。東京駅の設計で知られる辰野金吾は工部大学校(後の東京帝国大学工学部)1期生である。
Architecture は当初「造家」と訳され、1886年に工部大学校卒業生を中心に「造家学会」が設立された。やがて伊東忠太による提案を受け、1897年に建築学会(現・日本建築学会)と改称した。伊東は、「造家」では技術的な要素が強すぎるので、芸術的な要素を強調するため「建築」という名称を主張したものであったが、すでに明治6年に発行された英和辞書でconstlactionを「建築術なり」と称していた。学会も発足当初からやはり技術的な側面が強く、純粋な建築家のみでなく、施工側の建設会社も参加する団体となっていた。
これに対する反発として、大正時代に日本建築士会と関西建築協会(現・日本建築協会)が結成された。日本建築士会は設計と施工の分離を主張し、西欧の Architect に相当する地位を確立すべく、「建築士法」制定運動を起こした。1925年に「建築士法」案が議会に提出されたが、建築界全体の足並みがそろわず、成立を見なかった。
第二次世界大戦後の1950年、建築士法が成立し、国家資格としての「建築士」制度が誕生した。名称は戦前のものと同じだが、その内容は戦前期に提案されたものと異なり、一定規模の建築物を手がけるすべての建築従事者が対象の資格となり、「建築士 = Architect(建築家)」というわけにはならなかった。現在に至るも、日本では「建築家」として認定するための公的認定機関は存在せず、それを名乗るのに免許証や資格証等の証明は不要で、それに代わる資格認定機関も存在しないのが実状である。
実務上は、建築設計事務所のなかでも国家資格である「建築士」を擁した登録事務所でなければ、一定規模の建築を設計・監理することはできない。他方では、前述したように「建築家」というのは資格制度上のクレジットではなく、自身では資格がなくとも、スタッフに有資格者を置くことで建築士事務所を主宰し、職業として建築家と名乗る、ということも可能ではある。
このため「建築家」の明確な定義はないが、一般的には
などについて、建築家と呼ぶことが多い。一般マスメディアは資格名である「一級建築士」で権威付けすることが多いが、業界内では、「建築家」という呼称が作家性の存在、また職能性を示唆するため一般に使用されている。 『新建築』『GA JAPAN』『建築文化』などの建築関連専門雑誌メディアなどを作品発表の場とする人がいわゆる有名建築家とされることが多い。
社団法人日本建築家協会では、建築家を職業のひとつとして扱う。建築家職能原則に従って、同協会への入会資格を以下のように定めている。
国際的な建築設計競技などでは、UIA(国際建築家連合)の会員資格を求められるものが多いが、日本ではJIA(日本建築家協会)に所属することでUIA資格保持に準拠するものとしている。
RIBA(王立英国建築家協会、Royal Institute of British Architects)の定めでは、「建築家」としての資格取得までに、特定の教育研修機関でのディプロマ取得と一定期間の実務経験を有することとしている。これは最短でも大学院以上の履修課程を含め6年間かかる(日本やアメリカの「学部」に相当するものを入れると8年以上)が、最短で取得できる者はまれである。ヨーロッパのディプロマ制度・実務資格も、これに準拠している。(参照:RIBAゴールドメダル)
日本では明治時代後半から清水組などの大手建設会社が大学出の学士を採用するようになり、自社で設計から施工までを一貫して行う体制を整えてきた。この点は西欧流に設計と施工の分離を唱える立場からは問題視され、戦前の「建築士法」制定運動の中では、施工会社が設計を行うことを禁止しようという主張も見られた。しかし、現在の日本でも大手ゼネコンの抱える設計部は建築界において大きな位置を占めており、評価の高い作品も多く生み出している。
大学で建築学の教育を行ないながら、実際の設計に関わるものをいう。日本では、古くは東京大学の伊東忠太や早稲田大学の佐藤功一らの例がある。特に東大の内田祥三は営繕課長を兼ねて安田講堂を含むキャンパス計画を作成し、教え子を育てながら大学のグランドデザインを実現させていった。第二次世界大戦後も丹下健三、芦原義信、吉田五十八、吉村順三、堀口捨己、大野秀敏、坂本一成などプロフェッサー・アーキテクトの例は多い。単なる理論のみでなく実務に関わることは研究上・教育上も必要であり、学生に設計実務を示すことができるなどのメリットがあるとされる。